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ここは管理人u16の趣味雑記をのせたブログです
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他のポップスと比べたアニソンの特長とはなんだろうか?
諸説あるだろうが、俺としてはそのイマジネーションだと思う。
雑食性とも言おうか。アニメというリアリティに囚われないコンテンツに合わせるため、ロック、ポップス、テクノ、ヒップホップ、ジャズやファンクなど世界中のあらゆる大衆音楽を組み合わせ、かつ音楽的素養の無いものにもリーチするようなポップさを維持する業はまさに職人芸と言ってよく、それはありきたりなフォーマットに沿ったイージーリスニングや流行の音楽に日本人ウケするメロを乗せただけのオリコン曲にはない魅力だ。
しかし最近、MONACAやエレメンタルガーデンなどのアニソン制作集団や、クラムボンのミトなどの他業界アーティストによる良質なアニソンがじわじわとアニメ業界に浸透し始めるに従い、その特長が少しづつ薄まってきているような印象がある。
確かにそれらの曲は良質であり、参照点にもその参照方法にもセンスを感じさせ、また猿真似に終わらないテクニカルなアニソン変換には聴き応えがあるのは間違いない。
しかしそのハイセンスさが逆に先述したイマジネーションを減衰させているような気がしてならないのだ。
その最たるものが花澤香菜だ。
北川勝利、ミト、カジヒデキ、沖井礼二、スタジオアパートメント、やくしまるえつこ…確かにセンスのいい人選である。
だがしかし、そこに「センスの良さ」以外の何かがあるだろうか。
ヴィレッジヴァンガードに通うような、ナタリーに毎日アクセスするような、「音楽オタクが知るいい音楽」以外の何か、花澤香菜だからこそ表現できる何かが存在しているだろうか?
彼女が歌う歌たちをアニソンと呼ぶ必然性があるだろうか?
彼女のCDが並ぶべき場所はラウンジ系ポップスの棚なのではないか?
もちろん音楽においてクオリティは重要な要素である。
この島国のある1クラスタでしか通用しない低レベルな音楽をオリジナリティと主張する愚を犯すつもりはない。
しかし、もし例えそれが声優アーティストだったとしても、その音楽を表現と捉えるのであれば、そこにオリジナリティが、イマジネーションが、何かそこにしかない個性があって然るべきだろう。

まずこのアルバムの人脈を整理しよう。
作詞は全て藤林聖子が担当している。それによりアルバムの歌詞全体に通底するファンタジーを与え、強力な世界観を構築することに成功している。もちろん詞としてのクオリティもベテランならではの安定したものである。
そして作曲は主に3人。同人音楽出身であり『プティパ』のリード曲"回転木馬としっぽのうた"、シングル"ビジュメニア"など非常に独特な曲で悠木碧のアーティストとしてのイメージを確立したと言っていいお馴染みのアーティストbermei.inazawa氏、同じくシングル"クピトゥレビュー"の作編曲を担当していたダブ系出身のzakbee氏、そしてtofubeatsがお気に入りに挙げたというエレクトロニカ系アーティストである辻林美穂氏。
これは声優アーティストのアルバム、それもアーティスト側にプロデューサーがいない場合としてはかなり少ないほうだと言っていい。また作曲側に有名なアーティストが一人もいないというのもアケースと言える。
ネームバリューや音楽性の幅より、それぞれの個性を活かししっかりとまとまった作品を作るための少数精鋭というところだろう。
そして曲だが、まずその作品トータルとしての完成度に驚く。
その曲順からしてかなり考えぬかれている。
ゆったりとしたバラードの"SWEET HOME"から強烈な個性が耳を引く"アールデコラージュ ラミラージュ"、その後系統の似た既発曲二曲のあと音数の少ないバラードと個性あふれる佳曲のポップスを交互に展開し、その後ジャジーな曲を三連発。最もわかりやすく盛り上がれるであろう"クピトゥレビュー"を最後の方に持ってくる心配りが憎い。
また、手癖やノリで書いたような曲が一つとして無い。
シングル曲以外も全てアレンジや展開が一癖も二癖もあり、気を抜いて聞いていられない。そこにある意味があり、またその役割をしっかりと全うした粒揃いの楽曲が並ぶ。
bermei.inazawa氏はいつも通りの個性的な展開で気を引かせ、辻林美穂氏は落ち着いているが一音一音にセンスが込められたアレンジでじっくりと聞かせる。そしてzakbee氏はテンションの高いジャズでクライマックスを作り出す。
特に美しいメロディが静謐なエレクトロニカとしてのアレンジのうえで輝く"ロッキングチェアー揺られて"、楽しくグルーヴィーなビバップに乘せてどこか物悲しく歌われる"Angelique Sky"は、非シングル曲とは思えないほどのハイクオリティである。
これほどまでにクオリティとオリジナリティ、そして完成度の高いアルバムは邦楽全体を通してもなかなか見当たらない。
そのせいで音楽性の幅は少ないし、いわゆるアニソンとしてのポップさはあまりない。参照点もわかりにくいし、皆で盛り上がるツールとしての機能性は低いだろう。
だがそうではない、単純にアーティストとして見た悠木碧の表現物という観点から見て、これほど素晴らしい作品はないとすら言える。
今までの彼女の作品でも他に比べればその主張、表現、個性は強いと言えたが、それでもミニアルバムではやはり現在の流行に載せた世界観の違う楽曲が少なからずあった。
だがこの作品、『イシュメル』は違う。
彼女の奥底にあるイマジネーションと美学に満ちた寓話的、演劇的世界観。曲のために絵を書き下ろす彼女の、溢れんばかりの想像力を120%受け取った音楽たちだけで作り上げられている。
それはそう、ある人々からすれば「痛さ」と言い表されてしまうほどの若々しく強い個性は、音楽アーティスト活動の結晶としてのフルアルバムというそれが存分に発揮されるべき表現媒体において、今までの何よりも光り輝いて顕される。
もしこの作品からその代表となる曲を選ぶなら、迷わずリード曲である"アールデコラージュ ラミラージュ"だ。
ストリングスやキーボード、女性コーラスなどがめまぐるしく展開して表現される大仰な演劇の劇伴のようなbermei.inazawa氏の特長は引き継ぎながらもそのリズムはあまりに強く、そして6拍子から5拍子へと変わるサビでは追い切れないほどの数の音が音域全体を覆い尽くして、減った1拍子分切迫したリズムによって迫り来る力強さの上で悠木碧は高らかに散文詩的な言葉を歌い上げる。
決してオリジナリティに耽溺しないポップさを持ちながらそれはあくまで聞き手への迎合でなく作り手の美学であり、しかしその根底で波打つ想像力がどうしようもない奇妙さを生み出して聴く者をどこでもないどこへ連れていく。
これこそが俺の望む「アニソン」の境地である。

惜しむらくは基本的に打ち込みであり、プレイアビリティがあまりにも希薄なことだろうか。
現実的な予算や手間の観点からも、彼女の言葉の端々からも、ライブではオケを流すだけであろうことは想像に難くない。
もちろんそれは全てを生音で録るにはあまりに壮大過ぎるイマジネーションの表現だったということの裏付けでもあるが。
しかし逆に言えば音楽面で使うはずだったリソースを全て視覚面に割けるということでもあり、「『イシュメル』の世界観を戯曲的に表現する」という発言からも、その舞台演出は相当に凝ったものであろうと思われる。
そういえば彼女は基本的にアーティストとして歌うときは「うまく歌うことではなく、演じるように歌う」ことを心がけているらしい。
確かに単純な歌唱力という面ではさほど得手というわけではなく、また逆に演技力に関しては若手でもトップクラスである彼女にとってはその方がやりやすいだろうし、実際そのことによって歌唱面でもこの作品の世界観を表す一助となっている。
そしてその表現方法がもっと強く発揮されるのがライブであろう。
音楽面ではないトータルの表現物としての完成形を、ぜひそのライブで目撃したい。
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ホステスをしていた女子アナ志望学生の内定が取り消されたというニュースには本当に暗澹たる気分にさせられた。
「高度の清廉性」などという企業言語で着飾り、企業の名前を冠して堂々とくだらん男の支配欲を主張する世界が存在するというその事実。
もちろん女子アナに「高度の清廉性」などというものが必要ないことは本音以前に建前としても明らかだ。半ばタレントに近い彼女らの私生活に妙な保守性を求めようとするのはそれこそ彼女らをコンパニオン程度にしか見ていないただのそこらの飲み屋で管を巻いているハゲオヤジだけであり、そんな下半身事情が企業の内定取消理由として成り立っていることが逆説的に女子アナという職業がコンパニオン以上の価値を見出されていないことを表してもいる。
そしてもし他に「高度の清廉性」が求められる職業があるとしたら、それはきっと女性声優だろう。
芹澤優の指輪が写る写真が載ったツイートにまるでさもマナーに欠ける行為をしたかのような批判のリプライが飛び、そしてそれを内々で注意し黙って消すでもなくまるで本当にマナー違反をしたかのように謝罪のツイートをさせられるという事実だけを見ても、いかに女性声優という業界が上で描いたような処女性の上に成り立っているかということがよくわかる。
いや、実際のところそうではない人達も多い…むしろ声優としての活動を主としている人たちにはそのような価値観と無縁なキャリアを歩んでいる人ばかりではあるが、しかしやはり中心となって活動する女性声優に求められているのは可憐で清純なアイドル的なイメージだということは間違いない。

その中でも、竹達彩奈はまさにその中心に位置する人だろう。
幼児体型にわかりやすい萌え声、黒髪ロングで清楚かつかわいらしい身振り。もはやいちいち具体的事例を挙げて説明する意味を感じられないほどに、典型的なアイドル声優である。
そんな彼女が沖井礼二や川本真琴など、そのパブリックイメージに似合わないいわゆる渋谷系と言われるようなアーティストを従えて作ったのが前作『apple symphony』である。
そもそも渋谷系…さらに言えばその参照元であるフレンチポップスもあまり歌唱力を必要とせず、またJポップやその亜流である(狭義の)アニソンとも近い関係性を持っているジャンルなだけに、お世辞にも歌がうまいとはいえない彼女がアーティストとして活動するにあたっては良いチョイスだったと思う。
そのクオリティもまた見事なものであり、前作は花澤香菜の『claire』とともにアニソン業界だけでなくもっと広い邦楽の年間チャートのそこここで見ることが出来た。
そしてれから1年半経ち、上梓されたのが今回取り上げる『Colore Serenata』である。

まず人脈から整理すると、基本的には前作と同様の小林俊太郎と沖井礼二のコンビが基調となっていることに変化はないが、少し広がっていることが見受けられる。
赤い公園、FRONTIER BACKYARD、サンボマスターに川嶋あいなど、「オシャレ」と言われる渋谷系とは縁が無さそうなアーティストが曲提供をしている(赤い公園やFRONTIER BACKYARDはバックをバンド本人たちが演奏している)。
各アーティストはそれぞれ自分の個性を殺すことなくアルバムに広がりを与えており、スカパンクな"週末シンデレラ"、フィードバックなギターが心地いい"クレンジングラブ"、80sポップスな"齧りかけの林檎"、予想外にかわいらしいバラードな"永遠にキミのことを愛したいと言わせて"などなど、前作に比べ音楽性という面ではバラエティに富んだ一枚といえる。
しかしそれではまとまりが無くなっているかと言われれば、むしろ逆である。

今回のこの『Colore Serenata』は、コンセプトアルバムとなっている。
モチーフは「プリンセス」だそうで、全体を通して歌詞は「恋に恋したお姫様が外の世界を夢見て飛び出す」という、ディズニーなどでよくある童話の流れを汲んでいる。
一例を挙げてみよう。
「パパよりも好きな人ができたの 旅立ち Flying high 恋するみつばち」
「週末ちゃんとする時間もない 平日ほんと寝る時間ない ほんの今日くらいはいいでしょ?」
「慌てなければ 望まなければ 平和な日々過ごしてきたのに」
「甘いだけじゃ足りない 辛いだけじゃせつない 欲張りでもいいでしょ?」
作詞も先ほど書いたアーティストに一任しているとは思えないほどに一貫したトーンがアルバム全体に通じている。これはコンセプトについての説明やディレクションを相当したのではないかと推測される。
また、作曲面においても、バンドサウンドを基本としたカラフルなポップスという全体的なトーンがあり、ドラムの鳴りやギターサウンドなどプロダクションにおいても統一感が見られる。
といってもこのようなモチーフはアイドルが歌うにおいて典型的と言ってもいいものではあり、これが彼女としての表現となっているかは難しいところである。
もし、彼女が冒頭で書いたような状況にいなければ。

最近ネットでよく見る言葉に「オタサーの姫」というものがある。
バカバカしいので意味は説明しないが、言ってしまえばアイドル声優そのものが大きなオタサーの姫と言える。
いわゆる飲みサーのようなリア充空間…つまり女性価値における戦場で戦う気力のない女性たちが、オタク業界というランクの低い場所へと降りてその希少価値を高める。そのような側面が、間違いなくアイドル声優にはあるというのは否定しがたい事実だろう。
彼女らは従える豚の強い忠誠心の証として金銭を受け取り、その代償として処女妄想に出来る限り殉じる。自らの思った通りに生きてかつそのマイナスを超える性的価値を保持し続ける誰が言ったかSATC女子とは逆の、妥協点と馴れ合いの世界。
何度も言うように女性声優業界その全てがそうだとは断じて思わない。だがしかし、「声優」という本来アイドルと全く関係ない肩書を忘れて唾棄すべき演技を堂々と垂れ流しながらくだらないアーティスト活動だの写真集撮影だのに勤しむ声優たちと、それをただただアイドルとしてだけ見て追い掛け回し、だがそこに少しでも男の影を見出せばまとめて襲いかかるファンともいえないような連中を見ていると、何があるべき姿なのかわからなくなってくる思いが頭をよぎる。

そんな中で彼女は歌う。
このアルバムのリードトラックである"クレンジングラブ"。
SMAPからゆるキャラにまで曲提供するポップさを持ちながら、天井潤之介氏を虜にするような音楽性も併せ持つ特異なバンド「赤い公園」が作詞作曲編曲演奏全てを担うこの曲で、ポップスとは思えない朴訥としたドラムとベース、攻撃的なディストーションギターを後ろに彼女はこう歌う。
「知ったふうなふりして私を語らないで 胸の内は誰にも見せはしないのよ
とんだ可愛い私を信じないで 柄でもないわけでもなくないはずもない
人並みに疲れるしあぐらもかくけれど 私の泣き声を私は知らない
クレンジングラブ ほらさらけ出す 何より危ない秘密よ
シャララ さあ歌いましょ お化粧を落としたほんとの声で」
誰よりも豚どもの理想を叶えている彼女は、一体どんな気持ちでこう歌っているのか。
嘘だと知って騙される豚どもはどんな気持ちでこれを聞いているのか?

彼女のライブに行った。
驚いたのは開催一週間前にまだチケットを買えたということで、確か即完だと聞いている花澤香菜とは随分差を開けられたのかなという印象だった。
そこにはもちろん人生の9割を竹達に捧げているような連中ばかりで、もはや驚くこともないけれど、逆に少しだけ見えるグッズを買うために並ぶ若い女性はどんな心境で彼女のライブに行くのか気になりもした。
バンドはベース沖井さんキーボード小林さん、ギターがヒックスヴィルの小暮さんにドラムがノーザンブライトのゲンさんということで、まさに渋谷系バンドといったところか。
カラフルな音像が特徴でもあった竹達のライブにストリングスやブラスがなかったのは少し残念ではあったが、もちろんオケで流すし何よりそのバンドの実力はまさにそこらのバンドなど勝負にならないほどであり、かといってアニソンバンドのようなセッションミュージシャンじみたつまらん演奏もほとんどなく、沖井さんは飛び跳ねながら冗談みたいな音量のベースをうねらせ、ゲンさんは手数の多いエネルギッシュな演奏で場を沸かせた。
アンコール、本当に仲の良さそうなバンドの紹介の後、最後の曲は"ライスとぅミートゅー"だった。
まるで緊張の糸が切れたかのように彼女はあちこち走り回り、歌詞を間違え、楽しそうに「アイラブビーフ!アイラブポーク!」とコール&レスポンスをしていた。
俺は最初1stを借りた時、鉄壁のアーティストを揃えてこんなバカな曲を作る発想が全くわからなかった。だが、今なら少しだけ分かる。
彼女ははみ出そうとしているのだろう。
清楚で可憐な女性声優というイメージから。豚どもの妄想から。
それはもちろん平野綾のように大きく逸脱しようという試みではない。ファンは間違いなく大切な存在だろうし、美貌を持つ女性が全てその性的魅力を最大限武器にして生きていかなければいけないという道理はない。
ただ、真綿のように首を絞める監視社会で、イメージを恥じることなく押し付け非難する連中を相手に、一瞬でもただ歌う女性でいたいという願いを叶えたのがこのアルバムだったのかなと思う。
そしてそれは決してつまらない彼女の逃避願望で終わるとも思えない。
花澤香菜のような等身大じみたイメージとも、お仕着せのアニソン歌手とも、坂本真綾のようなアーティスト然とした態度とも違う、このイマジネーションに溢れたカラフルなファンタジーを受け取る人は、それこそYUKIやきゃりーぱみゅぱみゅのように、きっとどこかにいるはずだ。
そしてより強固なファンタジーを持つ悠木碧が彼女と近しいという事実は何かを表しているに違いない。
悠木碧のアルバムが2月に出る。ライブも春にやる。
楽しみだ。


最初に踊ってばかりの国を見たのは黒猫チェルシーのライブの前座としてだった。
『All de Fashion』のレコ発だから2009年あたりか。そのときはまあよくあるサイケバンドかなぁ位の印象しか持つことはなく、記憶にもほとんど残らなかった(あとスヌーザーのインタビューで「俺たちは黒猫チェルシーみたいな懐古バンドとは違うんで」みたいなことを言ってたのもマイナス点だった。呼んでもらったライブに出ておいてそういうことを簡単に言う不義理は嫌いなので)。
その後エレキングでかなり取り上げられるようになったのには驚いたが、確かにこういうサイケバンドはエレキングの好みでもあるだろうし、野田さんもオウガといいこんなんを頑張って誉めそやさなければいけないなんて大変だなぁなんて大きなお世話を焼きながら、特に興味も持たずに最近まで過ごしてきた。

そんな折、つい最近用事があって新宿に行くことになり、失敗しない生き方に興味を持っていた俺は『常夜灯』を買うために行ったタワレコで、彼らのインストアライブを偶然見ることになった。
驚いたのはそのボーカルの瑞々しさだった。確か俺が前に見たときはかなり変な(毛皮のマリーズみたいな)声だったのだが、うまくなったのか俺の記憶違いなのか本当に綺麗な声質でとても驚いた。
決してドラマチックではないがすこしだけ感傷的なメロディの美しさ、それがアコースティック編成だったのもあるかもしれないが楽器もあくまでボーカルを立てる控えめだが上手な演奏で、気づけば引き込まれて俺はレジにこの作品を持っていった。

果たして『踊ってばかりの国』には、まさにそのインストアライブで味わうことのできた美しさがしっかりとパッケージングされている作品だ。
以前のサイケバンド色はどこへやら(といっても他の作品は聞いていないが)、アレンジも曲構成も全くもってよくあるロックバンドのそれである。
参照先としては60sあたりのロックンロールを基本としつつ、直線的なグルーヴは90s邦楽のようでもあり、"いやや、こやや"のようにサイケ色をはっきりと見せる曲もある。
ただこのアルバムは、リズムやアレンジで魅せるようなアルバムではない。
ボーカルの下津が書く歌詞とメロディこそが、この作品を特別なものにしていると断言できる。
「話を終えよう 僕は変わらない 何を言われても君よりはダサくない」
「123と歩幅を皆合わせて フォーマルスーツ着込んだこの町の働きアリ」
「世界のせいにするなよ いつも君が悪いんだろう この町に罪はないだろう ノータリン」
何一つ言い訳のないただ尖った言葉の数々は、今の邦楽のどこにもないものだ。
"セシウムブルース”や"東京"、"踊ってはいけない国"などかなり社会的な言及をする歌詞もあり、本当に自由に書いているんだなということがよくわかる。
ただ自分としてはそのような歌詞よりも、"サイケデリアレディ"のような悲しみと諦観と怒りと愛が合わさった歌詞のほうが心惹かれる。
そう、彼らは怒りをそのままで表現しない。
美しいメロディと声に乗せて歌うのだ。
そのメロディは特異なものではないが実直で心に響く。おとぎ話やソウルフラワーユニオンのような良質な邦楽インディの系譜を継ぐ感覚がそこにはある。
また、ボーカルの美しさは特筆すべきものだろう。
まっすぐ歌いながらどこか飄々としているその歌唱はどこか宮本浩次や奥田民生を思い出させ、高音にも伸びがあるしたまに見せる忌野清志郎じみたソウルフルな絶唱も鬼気迫るものがある。ギターやドラムもむやみやたらと騒ぎ立てるのではなくひたすらにボーカルに寄り添いその素晴らしさを際立ており、かといって適当に弾いているだけというわけでもなくいいバランスだ。
まさに歌のアルバムといえるだろう。
ハイライトは物悲しさの漂う"サイケデリアレディ"からの"それで幸せ"だ。
ゆっくりした三拍子にアコギのストロークから楽器が少しずつ加わっていくという日本バラードのクリシェ導入から、今まで強い言葉を並べていた下津がサビでひたすらこう繰り返す。
「明日あなたに会う それで幸せ」
ひたすらにそれだけを繰り返し、そして最後にファズギターが炸裂する。爆音の中やはり下津は叫ぶ。それは怒りのあとの幸せであり、空虚だがリアルな言葉だ。
ドラマチックで情感的な曲構成は今までのどの曲にもなく、だからこそドラマを信じないニヒリズムの上で何かしらの意味を持って鳴り響く。

余談だが、歌詞を見るためにグーグルで「踊ってばかりの国」で検索しようとしたら、検索候補に「踊ってばかりの国 2ch」と出た。
それほど人気だったのかとスレをのぞくと、そこにあるのは「下津は不倫してる」「平賀さち江とヤってる」「そのあとはきのこ帝国の佐藤だ」というような、醜聞とすらいえないようなレスばかりだった。
下津は「この国は踊らされている」という。
俺はむしろ決して踊らない国だと思う。
何が起きても焦らない。地震が起きても原発事故が起きても、人が死んでも奇跡が起きても戦争が起きてもそれが終わっても、決して感情的にならず、踊らされずに冷静沈着でいる。いや、冷静なフリをする。そして怒り笑い踊るバカを冷笑する。
まさに「踊ってはいけない国」というやつだろう。
その中で彼らは貴重だ。決して叫び声をあげるのではなく、アジるのでもなく、まるで愚痴かギャグかのように不満をを吐露し、違和感を表明する。
インストアライブは盛況だった。決してロックオタクではなさそうな人たちも興味をもっていた。
彼らの歌があればきっともう少し先にいけると思う。エレキングがもてはやすのは間違いなくその社会性にあるんだろうが、そんなところに収まらずもっと今のような無責任な、日常的な社会批判のスタンスを守っていってほしい。
そして彼らの飄々と酔っ払い歌う姿を見ていると、心配ないかなと思える。




今月ディスクレビューやってない。
が、金がなくて全くCDを買っていない。
というわけで自分が何百回と聞いてる超大ネタをやることにします。

Mogwaiの最高傑作と聞かれたら迷わずこれを挙げる。
コアなファンは初期らしい。まあ理解できなくもない。Mogwaiの先鋭性がもっとも現れていたのは初期だろう。1st『Young Team』の吐き気がするほどの重苦しい怒りが3rd以降薄れていっているのは間違いない。
『Rock Action』からMogwaiが辿っていった道は、誤解を恐れずに言えばポップへの道といえる。
曲を短くし、分かりやすいリフとメロディを軸に置き、構成にメリハリをつけ、ノイズは控えめに。それを面白くないと考えるファンがいるのも理解できる。
ただ、俺はもちろん初期のパンクスピリット溢れるMogwaiも好きだが、そうやって強度をつけていったMogwaiのほうが好きだ。
先鋭性と普遍性のバランス。アートとポップのバランス。いくらポップに振れようともそれを演奏するのは間違いなくMogwaiなわけで、何の面白みもないポップスが出来上がろうはずもない。いやむしろ根底をアヴァンギャルドに据えたMogwaiができる限りの力をもってポップなものを作ったとき、最高の作品が出来上がるのではないか?
それが『Mr.Beast』である。

まず最初の二曲だ。
ゆったりとしたリズムから段々と盛り上がっていく"Auto Rock"から爆音ノイズヘビメタの"Glasgow Mega Snake"へ。これほど素晴らしい導入もない。静謐から轟音というMogwaiの特色をよく表した二曲である。
また爆音を今までのようなノイズで表すのではなくBlack Sabath風のヘビィな爆音で表現するという今後のMogwaiでよく使われる手法もこれが初めてである。決して音程のない純粋なノイズを垂れ流すわけでもなく、しっかりとしたリフで曲を構成して、だがその音自体は今までのMogwaiのような個性的なディストーションで彩る。ロックであってロックでない、このころのMogwaiを象徴する一曲とすらいえる。
そのあとの4曲もまた絶品の一言だ。歌入りの優しく美しい"Acid Food"、同じく歌入りだが轟音が気持ちいい"Travel is Dangerous"、どこか物悲しい"Team Handed"、そして代表曲の一つである"Friend of the Night"。
"Acid Food"と"Team Handed"は今までのMogwaiの域を出ないが、他の二曲はなかなか考えられない曲である。なにせメロとサビがあるのだ!その美しいメロディと構成はもはやJPOPとすら言えるかもしれない。
ただしその音像自体はJPOPのような甘っちょろさは一ミリとしてない。"Travel is Dangerous"のサビで響くファズギターはあくまで完全に今までのMogwaiである。決して抑揚のないBarry Burnsのボーカルの上で鳴る殺意に満ちたStuartのギターは耐え難い美しさを描きあげ、それはまるでbloodthirsty buthersのようですらある。
そしてライブの代表曲、"Friend of the Night"だ。
この曲にはボーカルはないが、やはりメロとサビ、そして間奏がある。また爆音も控えめで、どちらかといえばクリーントーンのギターとピアノが主体だ。
だがそこには初期にはない…いや本当は最初からあったがあまり目立たなかったMogwaiの素晴らしさである美しいメロディがある。ボーカルでは表せない抑制された感情を表すギターの美しさは筆舌に尽くしがたい。間奏の後にじわじわと混ざるディストーション、そして最後のサビ…今まで何度聞いたかわからない。今までのMogwaiのどの曲とも違う、抒情性と侘び寂びの狭間に位置する名曲である。
この4曲ほど完成された並びを俺は知らない。いくら聞いても色あせない物語がある。
もちろんそのあとも素晴らしい。今までと違い明るく開放感のある"Emergency Trap"は前の3曲にあった悲しみを和らげる役割を果たしている。
そこでさらに明るい曲を持ってくるべきところに"Folk Death 95"を持ってくるあたりがさすがMogwaiというべきだろうか。
前作『Happy Songs for Happ People』の"Killin All the Flies"や"Travel is Dangerous"に近い曲で、せわしないがやはりどこか悲しいギターアルペジオと力強いリズムから段々とファズを入れて盛り上げていき最後に一気に爆発させるこれぞMogwai!といった曲だ。最後の音圧たるや恐るべきものがある。
そしてさらに"I Chose Horeses"で小休止をはさみ(正直この曲は冗長であまり好きではない。まあ他の完成度が高すぎるだけだが)、最後に地獄の爆音ノイズソング"We're No Here』でガッツリ締める。
"Like Herod"、"My Father,My King"、"Ratts of the Capital"などなど今までMogwaiがやってきた真黒なノイズがここでも存分に発揮されている。これを今までのような感情豊かな曲群の後に聞くとまた感慨というか快楽もひとしおである。やっぱりMogwaiはこうでなくては!とガッツポーズの一つでもしたくなってくる。
美しい導入、殺意に満ちた爆音、もの悲しさをひたすらに美しく表現した中盤、明るい後半に一つスパイスを挟んで最後の最後にまた爆音。アルバムとしての流れも非の打ち所がない。

確かに彼らのパンクスピリットは減退したかもしれない。売れて落ち着いてしまったと思われても仕方ない。
だがやはり1stは何度も聞くタイプのアルバムでもないし、どこか表現している感覚も一面的なように思う。「アヴァンギャルドなポストロックバンドが世界への怒りを表現したアルバム」の一言以上の力はそこにはない。
ここには様々な感情がある。美しさ、明るさ、悲しさ、楽しさ、怒り。時雨にはまる姉すら聞けるポップさもあるし、もちろんアヴァンギャルドさも失われていない。
少しづつ進化…というか深化を重ねていき、音楽的強度をつけたMogwaiが作り上げたこのアルバムこそ最高傑作だと改めて言い切らせてもらおう。
正直これ以降のMogwaiのアルバムは確かにポップすぎるというか、このアルバムで完成させたポップとアートのバランスを縮小再生産している感は否めない。自分としてもそろそろ元のパンクスピリットを取り戻してほしいなと思っていたりもする。
まあもう年だしねみんな…しょうがないかもしれない。どんな〆だw




!!!とは?
「パンクでファンクなダンスロックバンド」というイメージが多いと思う。
ディスコを基調としたダンサブルな曲を、だが生バンドによるファンキーさとハードコアという出自によるパンクテイストを混ぜ合わせ唯一無二にして演奏する。
特にニックの叫ぶようなボーカルによく表れたパンク精神は彼らの魅力の中でも大事なものの一つだと考える人は多いのではないだろうか。2000年代前半にDFAなどを中心として巻き起こったダンスロックムーブメントの中でも突出した個性を持ちえ、現在に至るまで第一線で活躍できている理由は間違いなくそのパンクという部分によるものだろう。
2ndの『Lounden Up Now』と3rd『Myth Takes』はその素晴らしさがディスコと奇跡的な融合を果たした作品だ。長尺な曲群やグルーヴ、音の抜き差しの仕方などは明らかにダンスミュージックのそれではあるが、しかし演奏そのものはまさにパンクという他なく、ただの生演奏ディスコというクリシェから遠く離れた価値を持っている。クールなダンスミュージックをホットに演奏する!!!の魅力を形にしたといっていい作品である。
だが次作の『Strange Weather,Isn't It?』で彼らはさらにディスコに接近した。
荒々しいニックのボーカルはそのほとんどが抑制のきいたものとなり、音もジャムで一斉に鳴らし合ったというよりは各々を録ってミキシングの段階で加工したように感じられる曲が増えた。
それはダンスミュージックとしての更なる硬度をもたらし、わかりやすいブレイクなどではない上質なファンキーさを獲得することにはなったが、逆にロックバンドとしての勢いは失われた印象はぬぐえなかった。
もちろんその中でもリフレインが高揚を生み出す"Hammer"や一筋縄ではいかない曲構成の上でバンドの力が存分に発揮された"Wannagain Wannagain"などの光る曲はあったものの、やはり!!!にはダンスミュージックだけではなく"Me and Giuliani Down by the School Yard (A True Story)"や"Must Be the Moon"などに代表されるパンクな曲も書いてほしかったというのが正直な感想だった。

そして届いたのが、今作『THR!!!ER』である(しかしすごいタイトルだ)。
結果からいえば、彼らはさらにディスコを目指したといえるだろう。
驚いてしまうのがニックのボーカルの少なさだ。先行公開された"Slyd"ですら加工された声と女性ボーカルだけで、"Except Death"などはボーカルがないパートが半分以上を占める。曲構成もストイックでミニマルなものが多く、ダンスロックというよりもはやアシッドハウスやNu Discoといったほうがいい曲が数多く収録されている。
しかし、そのダンスミュージックとしての完成度は目を見張るものがある。
ミニマルなファンキーさは今までの!!!にありそうでなかったものであり、そのレベルも前作に比べ格段に向上している。また実は彼らというのは音の配置にはかなりこだわりを持っていて、ボーカルとドラムとベースを真ん中ギターを左右というようなベタな配置はほとんどせず、様々な音が右から左から飛び込んでくるプロダクションが好きなタイプなのだが、それがここまでダンスミュージックに接近することでとても耳を楽しませる効果を生んでいる。ちなみに曲ごとにドラムの音を変える細やかなこだわりはほんとにクラブ系アーティストみたいですごくいい。
また少なくなったボーカルに変わってこのアルバムにロック的な色を添えているのがギターである。
"One Girl / One Boy"や"Cariforniyeah"など、全編にわたってそのグルーヴを支える音をギターが鳴らしている曲というのは意外と今までの!!!にはなかったことである。コンプと空間エフェクトとカッティングをうまく使った音がとても気持ちいい。"Except Death"における長尺ギターソロ?はなかなか聞きごたえがある(この間ライブでニックどうしてんだろとは思うが)。
言ってしまえばロックとダンスどっちつかずだった前作をさらにダンス寄りになることで今までとは違う魅力を持ち得たということだろう。プロデューサーやエンジニア周りが固い音好きなSimian Mobile DiscoのJash Shawだったりさらに変なプロダクションが印象的なSpoonのJim Enoもプロデューサーにしたり、ジャムでなくちゃんと曲を作ってからスタジオに入るようにしたりミニマルテクノを聞き漁ったりと、ロック的な勢いでなくダンス的な渋さをだすために色々したようだ。それはちゃんと音に表れていると思う。
そして何より大事なのが、最終曲"Station (Meet Me At The)"である。
ここでプロダクションは一気にロック寄りになる。ドラムのフィルインからギターとベースを入れるイントロ、8小節を2回の典型的ヴァースからギターがグルーヴを作るサビへ。ニックのボーカルの荒々しさもそれぞれの演奏の仕方も、完全に初期の!!!のそれである。
もちろん彼らにはそのつもりはないかもしれない。だが俺には、過去のダンスロックとは違った大人のダンスグルーヴを手にした!!!が最後の最後で初心のパンク精神を思い出すかのように叫んでいるように見える。
それはとても素晴らしいことだと思う。同じことを繰り返すわけにはいかない。変わっていかなくてはならない。だが、すべてを変えてしまったらそれは自分たちがやる意味がない。
これは!!!の代表作ではないかもしれない。2ndと3rdが好きな人にはおとなしく収まってしまったように見えるだろう。次回はもっとパンクよりでいいとも思う。
だがLCD Soundsystemが解散し、The Raputureがよくわからない方向へ進んでいる今、もはやあの日鳴らしていたものとは全く違う音を、だが決して自分を見失うことなく鳴らしている彼らの姿に頼もしさを感じるのは間違いない。
アルバム一枚一枚ではなくアーティストそのものに魅力を感じ、ディスコグラフィを網羅したくなるアーティストというのはそういう人たちだと俺は思う。信じて7月4日代官山UNITに行こう。こんなスタジオアルバムをライブでどう再現するかとても気になるし。
最後にボーナストラックも名曲なので日本版買うことをお勧めします!

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